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平将平
平将平を描いたと推測される人物が牛に乗っている絵が、小鹿野町藤倉の諏訪神社で見つかった。
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「将門の乱」(938~940年)を起こした平将門の弟、平将平を描いたと推測される人物が牛に乗っている絵が、小鹿野町藤倉の諏訪神社で見つかった。将平とはどんな人物なのか。

 将門の乱を叙述した史料として信頼性の高い「将門記」に、将平が登場するのは1カ所だけ。将門が下総北部(現茨城県西部)を本拠に坂東八カ国を従え、自らを新皇と称した939年、将平は「帝王の業は知力や武力によるものでなく、天から授けられるもの。後世のそしりを招く即位は思いとどまってほしい」といさめたとされる。将平の言葉は「中国・唐の時代に帝王学の教科書だった『帝範』から学んだ君主論」と、将門研究者は解説する。

 これに対し将門は「武力に勝るものが主君となる。朝廷軍が攻めて来たら足柄(現神奈川県箱根町)、碓氷(現群馬県安中市)の両関で防ぐ」と一蹴。この後、下野、相模、伊豆、下総の各国司に将門の弟4人を任命するが、そこに将平の名はなかった。
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弟、平将平の絵? 小鹿野の祠で発見 刀差し牛に乗る /埼玉
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小鹿野町の群馬県境に近い山間の藤倉地区で、小さな祠(ほこら)の板壁に平安時代の武人のような人物を描いた絵が見つかった。平安中期に関東で「将門の乱」(938~940年)を起こし朝廷に背いた武将、平将門一族の伝説に詳しい歴史研究家の染谷洌(きよし)さん(81)=草加市=は「この絵は将門の弟、平将平を模しているのではないか」と推測する。この地に絵が残された謎を探った。【松山彦蔵】

 祠は小屋(間口と奥行き各約3メートル)内に保存されていた諏訪神社本殿。間口64センチ、奥行き57センチ、高さ195センチと小さめだ。同地区の新井、黒沢、花坂の3家が代々氏神としてまつり、新井家の当主、富士男さん(59)が3年前、傾いた本殿を修理しようとして西面の板壁に描かれた絵を発見した。
平将平の故跡/5止 「野栗明神」伝承の謎 /埼玉
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 「将門の乱」(938~940年)の主人公である平将門の弟、平将平と思われる絵が描かれていたのは群馬県境に近い小鹿野町藤倉の諏訪神社本殿。同神社を共同管理する新井富士男さん(59)ら3家の祖先が江戸時代に氏神として建立し、「判じ物」技法でひそかに将平を敬慕していたようだ。なぜ諏訪神社なのか。

 江戸時代の明和年間(1764~72年)に編まれた郷土誌「秩父風土記」にはこう記されている。「藤倉村、野栗明神あり。これは石間(いさま)落城、若子・女中、山中(さんちゅう)領へ忍び野栗村(現群馬県上野村)にて没す。将平の子息・女中方を野栗明神と号す。藤倉村に石間の余類残りおり、この地へも野栗明神を祭るなり」

 将平一族を弔う神社を「野栗」と伝える。今も上野(現群馬県)と武蔵(現埼玉県など)の国境を流れる神流川流域には将平や将門、その係累に関わる「野栗」伝承が残っている。